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「仕事にあった人を探す」から「その人にあった仕事を作る」へ

「仕事にあった人を探す」というのが現状ですが、ゆくゆくは

「その人にあった仕事を作る」という方向になってくるんじゃないかと感じています。


まず、現状。

「仕事」がある。


業種、つまり銀行だったり商社だったりメーカーという区分や、

職種、営業とか経理、人事、研究開発などの区分で、

「どんな人がその仕事にあっているか」が大体決まってくる。

また、その会社独特の風土も大きく関係してくる。


そういった、「仕事」が先にあって、

「じゃあどういう人が適しているんだろう」

「適した人はどうやって採用すればいいんだろう」


と考えていくのが現状の雇用というものですよね。


その現状においては、「ある個人がそこで仕事をする」というのは、

原因でなく結果であるわけです。


これは実際、効率的なシステムです。

誰かが事業を回すシステムを構築して、それに適した人を雇って実際に回していく。

特に、大量生産・大量消費の時代には、最高の効率だったでしょう。


しかし、問題点として、

「事業が人を選別し、支配する」
という状況が起こってしまうことが挙げられます。


例えば銀行の事業には、それに適した人物像があって、

その事業を回すために雇われた人たちには、

その人物像に合致する人間になるように有形無形の圧力がかけられます。


仕事というのは、社会に出て働くというのはそういうことだ。

それで効率的に組織を動かせるのであれば、それに従うのが社会のためだ。



そう言って「個人の努力」に問題の解決を委ねてしまうのは簡単です。

実際、大量生産・大量消費が世の中から強く強く求められていた、

バブル崩壊までの日本のような状況であれば、

「皆が、事業が(会社が)求める人物像になるために努力する」

というのが社会的に最も効率的で、またその個人においても

自己実現の達成のために効率的な手段だったんだろうと考えられます。


しかし、右肩上がりの社会が終わったとき。

会社についていってさえいれば、全てが保証される時代が終わったとき。

「事業が人を選別し、支配する」という問題が一気に顕在化します。


いくら働いても明るい未来が見えない。敗戦処理のような仕事ばかり。

いくら会社に尽くしていても、いつ切られるともわからない。


そんな状況下で、落ち目か良くても現状維持の「事業」に、

自分の持つべき人格を規定されて、そうなるよう圧力をかけられることに、

納得できるような人間がどれだけいるか。


正直言って、そう多くないんじゃないかと思います。


「事業」というものは、それに関係すべき人たち全てに、

その人たちのするコミットと同じかそれ以上のリターンを与え続けることが

可能な場合にのみ存続するものです。


つまり、株主は投資した資金と同等かそれ以上の資金を回収でき、

消費者は支払った金額と同等かそれ以上の価値を得ることができ、

労働者は提供した労働力と同等かそれ以上の報酬を受け取ることができるときのみ、

事業は存続していくものだし、そうあるべきなんです。


経済の失速によって、「事業」が労働者に与える金銭的な報酬が下がると、

労働者は以前までよりも少ない労働力しか提供しなくなります。


以前であれば「人格」を「会社に合わせる」という形で売り渡していたものが、

現状においては「そこまでする価値が無い」と判断されているわけです。


では、そういった状況におかれて、今後「事業」はどうなっていくのか。


労働者に十分な金銭的報酬を与えられなくなった事業は、

労働者の人格を支配するだけの影響力を保てなくなっていきます。


そこで起こるのが、「求める人材像とのミスマッチ」

まさに今顕在化している問題です。

この原因は企業のブラック化でも、情報の共有が足りないせいでも、

まして若者の甘えでもありません。


事業が「労働者の人格を支配するほどの影響力」を

持てなくなってきていることが原因にあると考えられます。


恐らく、ブラックな労働環境の企業というものは昔から存在しました。

それが表立って取り沙汰されるのは、そのブラックな環境をガマンするに値しないと

多くの労働者が判断するようになってきているからではないでしょうか。


このように影響力を持てなくなった事業は、早晩縮小し、衰退していくでしょう。


代わりに出てくると考えられるのが、「個人本位で作られた事業」。

つまり、先に働く人の人格や能力があって、それに適した形でデザインされた事業。

「この人がやったから、こういう事業が形作られた」と言えるようなもの。


こういった事業は、金銭的な効率性では

「先に事業があり、後に人がある」タイプの事業には勝てない可能性が高いですが、

労働する側から見れば、「自分に最も適合した仕事」という、

無形の価値を持つものになります。


また、そういった報酬を労働者に与えることが可能な事業であると同時に、

多様な製品・サービスを生む可能性を持ったスタイルでもあります。


「先に事業があり、後に人がある」タイプの事業では、

同じモノやサービスの大量生産や、その品質において大きなアドバンテージがありますが、

「先に人があり、後に事業がある」タイプの事業は、

一個人には把握し切れないほどの多様なモノ・サービスを

市場に提供してくれる可能性があります。


生産も消費も、「大量に同じモノを」というマスの時代から、

個々人に向けた細かな差異やモノ・サービスの持つストーリーを

重視するような潮流に変わってきていることを考えると、

「先に人があり、後に事業がある」タイプの事業が

まさにこれから伸びていくんじゃないかと考えられます。


働く側としても、消費する側としても、

「仕事にあった人を探す」から「その人にあった仕事を作る」へ、

徐々に移行していくのがこれからの流れなんじゃないかな、と思うところです。
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若者はなぜ3年で辞めるのか?

若者はなぜ3年で辞めるのか?って本がありますね。

読んだことないです。


なので、ここでは

『「若者はなぜ3年で辞めるのか?」を読んだことない社会人3年目が、

 若者はなぜ3年で辞めるのかについて考えてみる』


というよくわからないスタンスで、ちょっと書いてみようと思います。


結論は単純。

「3年やればとりあえずOK」って風潮があるから。

以上。


実際、「なんで3年なの?」に対する明確な説明はないですし、

単にみんなが慣例的に「3年続ければとりあえずいっぱしの職歴として見よう」って

運用をしてるから、若者は3年で辞めるんでしょうね。


おっさん達が経済週刊誌とか見て、

「そうか、3年で辞める奴が多いのか。鬼門だな。」とか思って、

会社の若い連中に「おい、3年ガマンしろ。それ超えたら楽になるから。」とか言うのは、

まったくもって順序が逆なんですよね。


辞める奴は辞めます。

そして、辞めるにしてもなるべく自分の得になるタイミングで辞める。

それが今の日本だと「3年」というタイミングであるというだけ。


逆に言えば、「3年でとりあえずOK」っていう風潮がある以上、

会社側としては、辞めてほしくないんであれば、

3年目くらいの人間に対して、辞めないでもらえるよう働きかけないといけません。


「一番辞めたくなるとき」に、辞めるよりも残ったほうが良いよって説得して、

納得してもらわないと、他の会社に第二新卒で取られるだけです。

教育コストだけ払わされて、「はい、さようなら」じゃ大損もいいとこですよね。


「3年目が踏ん張りどころ」なのは、若者ではなくて、会社側なんです。


そこんところを理解していない会社が非常に多い気がします。

ひどいところになると、「あーコイツやめそうだな」って若い奴に、

「お前使えない奴なんだから、辞めても他で通用しないからな?わかってるな?」

などという見当違いの説教を垂れてたりします。


そんなことを言えば言う程、若者の気持ちはその会社から離れ、

「ちょうどいいタイミングだし辞めるか」となってしまいます。


就活生のときに「就活は恋愛と一緒だ」なんてつまらんセリフをたくさん聞きましたが、

恋愛と同じで「釣った魚にエサはやらない」だと、

そのうち愛想尽かされちゃうよってとこでしょうか。

ちょうど他社から「モテる時期」があるってんなら、尚更です。


さて、ここで書籍「若者はなぜ3年で辞めるのか?」の内容をちょっとググってみました。

あ、「3年」よりも「長く働くことを選ばない」に重点が置かれてるのね。

そりゃそうか。


長く働くことを選ばない理由。

働き続けることに対する希望が皆無だから。

以上。


こんな企業と心中してやる義理はない。

そう思われるような企業がいかに多いかってことですね。


その原因は長時間労働低賃金で奴隷的な「ブラックさ」であったり、

企業内に今も残る「古き悪き風習」であったり。


ただ、この本でも主張しているらしいですが、

「単純な逃げ」としての退職は俺も良くないと思います。


「今の飼い主はクソだ。もっとまともな飼い主を見つけてやる。」

って考え方じゃ、結局なにも変わらない。


「自分の足で立てる環境はどこだ?」って探し方をしていかないと、

転職の無限ループにハマってしまう気がしています。


恐らく、退職・転職を選ぶ同世代もそろそろ多くなってくる頃でしょう、

お互い、自分の人生を自分がちゃんと楽しめるようにデザインしていきたいもんですね。

仕事の5W1Hを取り戻す。

企業で、サラリーマンとして、それも平社員の若手の下っ端として働く。

クソですね。


いきなりなんだって感じですが、

何故俺ら若手社会人が置かれてる状況はこんなにもクソなのかについて、

ちょっと考えたい。


「働きたくても仕事がない人がいるんだよ!?」

「新卒で正社員として雇ってもらっといて贅沢言うな!!」



とか、そういう話は置いておいて。


いくら倍率が高かろうが、クソなものはクソです。

いくら相対的にマシだろうが、クソなものはクソです。



で、なぜ若手サラリーマンである俺らの現状がクソなのか。


不自由だからです。

不自由っつーか、自由が無いからです。


5W1Hに照らしてみると、


Why:なぜ働くのか。
 → 成人としての義務だからだ。生活のためだ。

What:なにをするのか。
 → 会社に言われたことをやれ。
  (「自分で考えて動け」も命令。どういった結果を出すべきかも規定されている)

When:いつ働くのか。
 → 会社の指定した時間働け。(「ノルマが終わらなければサービス残業しろ」)

Where:どこで働くのか。
 → 会社の指定した場所で働け。

Who:誰と働くのか。
 → 会社の指定した人間関係の中で働け。

How:どのように働くのか。
 → 「会社への忠誠心がある」とされる行動様式に従い、周囲と同じように働け。



1つたりとも自分の意思で決められるモノがない。

うん、実にクソじゃないですかね。


全てが制約条件に縛られていて、自発的なものがない。

自発的に制約条件下に飛び込みたいって人はいいですが、

俺はこの制約条件にあまり魅力を感じませんね。


あ、これは特に日本の伝統的・保守的な企業を想定しています。

俺それしか知らないし。


で、このクソな現状をクソでなくしていくためには、

「働くこと」の5W1Hを自分の手に取り戻すことが必要なんじゃないかと思うわけです。


例えば、こんな感じ。


Why:なぜ働くのか。
 → 自分がやりたいからだ。(ただし、「生活のため」は排除しきれない)

What:なにをするのか。
 → 自分で決める。

When:いつ働くのか。
 → 自分が働きたいとき、働くべきだと思ったときに。

Where:どこで働くのか。
 → どこでも、自分の働きたい場所で。ITの進歩のおかげで、実務上はほぼ可能。

Who:誰と働くのか。
 → 自分が一緒に働きたいと思った人たちと。

How:どのように働くのか。
 → 周囲がどう働いていようと、自分が正しいと思った方法で。



制約条件を取っ払い、能動的なものに変える。

唯一の制約条件は、「自分が生活していかないといけない」ということのみ。

本来、仕事とか働くって、そういうことじゃないですかね。


古来から、食ってかないといけないからマンモス狩ったり農耕していたわけで。

マンモス狩らないと上司に怒られるからとか、

ジャガイモの1つも収穫できないと近所のおばちゃんが不審者を見る目で見てくるからとか、

そんな理由で働いていたわけじゃないですよね。


現代って「働くこと」や「社会人でいること」それ自体が目的化しちゃってるんでしょうね。


「働くこと」はあくまで手段であって、目的は「より良く生きること」。

そんなごく単純で当たり前のことを、見失ってる気もします。


で、こういう風に5W1Hを自分の手に取り戻すには、

皆さんも、もう十二分におわかりでしょうが、

ただの日本企業でサラリーマンやってたんじゃ無理ですよね。


革新的な(思考停止していない)企業で働くか、フリーランスやらになるか、

いっそ起業してしまうか、それくらいしか俺には思いつきません。


どれも、能力と勇気が必要な選択肢です。


でも、自由を取り戻したいと願う人たち全てにそれを要求するのは、

ちょっと酷な気もします。


せめて、どっちかがあれば何とかなるってところまで、状況を進めたい。

個人的にはそう思っています。


自由を取り戻すってことにおいて、

高い能力を持つ人には、ある程度の確実性を提供したい。

勇気のある人には、その能力を拡張・活用できる方法を提供したい。


どちらかを持っている人が自由を取り戻せるようになれば、

少なくとも今よりは「働くこと」を楽しめる人が増えるんじゃないかと。


どーやってそんなこと実現すんだよ?

抽象的なこと言ってても始まんねーぞ?



というのはまったくですが、何となくこんな方向性で色々考えています。

ちょっとだけ、方法の目途もついてきたところ。


とりあえず、現状はこういうこと考えて、やろうとしてるってことを

考えの整理と備忘録代わりに書いてみたということで。


まずは、俺の5W1Hかえってこーい

「企業倫理」ならぬ「労働者倫理」の必要性

企業倫理というものがあります。

意味としてはそのまま企業として持つべき倫理観のことですが、

企業本来の目的である「利潤の最大化」を達成する手段として考えられるところが、

通常言われる倫理との違いです。


例えば、単に環境保護と言うのではなく、

企業として

『自社の長期的な利潤最大化(=企業の存在する目的)のために環境を保護する』

という方針を定めれば、それが企業倫理になると考えてください。

企業の存在目的と、社会一般の倫理が並立し得る倫理観が「企業倫理」というやつです。


で、それに対して、「労働者倫理」または「経済社会を構成する人間としての倫理」

なんてものもあるんじゃないのかなと、ふと思いついてしまったので書きます。


あ、正式にそういう言葉があるってわけじゃないです。

ただの俺の思いつきです。


まず、この「労働者倫理」というのは、

言うまでもなく「労働者としての倫理観」のことであり、

つまり、「個としての労働者とはどうあるべきか」ということを命題にします。


「企業倫理」が、

『その企業が存続している間に創り出す価値の最大化』

(実際は企業の永続(=Going Concern)を前提に考えられていますが)

を念頭に考えられているのと同様に、


「労働者倫理」も、

『その個人が労働可能である期間に創り出す価値の最大化』

のために構築されるものと考えます。


「労働可能である期間」というのは、

「生産年齢人口」の定義である15歳以上65歳未満とでもしておきましょう。

重要なのは、企業と違って「個としての労働者は永続し得ない」ということです。

当たり前ですが、不老不死の企業戦士サラリーマンなんてのは存在しません。


その50年くらいの間に、どれだけ大きな価値を社会に提供できるか。

これが、「労働者倫理」という分野があったとしたら、

突き詰めるべき問いになるのではないかと。


合計値として最大化された価値を提供すればいいわけですから、

15歳からいきなり働かなくても、高校や大学や大学院に行って、

時間当たりの生産可能価値を高めてから仕事してもOKです。


30代でいきなり「世界を見てくる」とか言って1年くらい放浪生活を送っても、

その結果として社会に提供できる価値の合計が増大してればそれもアリです。


そういう概念として「労働者倫理」を考えてみた場合に、

経済社会の一構成員として、どう働き、どう暮らしていくべきか。


まず、意識として

「50年間で自分にできる精一杯のことを社会に対してしなければならない」

というのが大前提になければいけません。


あくまでこれは理想ですが、

倫理というのは「どのような理想を掲げるべきか」ということですからね。


「企業倫理」は企業がどんな倫理観を持てば最も社会の中で役割を果たし得るか。

「労働者倫理」は労働者個人がどんな倫理観を持てば最も社会の中で役割を果たし得るか。


「人間として」ではなく、

「労働者として」であるところが重要かつこの文章のズルいところですが、

「人間としてどう生きるべきか」なんて高尚な話は俺にはできないので、

「労働者として」のほうの話にお付き合いください。


で、その

「50年間で自分にできる精一杯のことを社会に対してしなければならない」

という認識を全ての人が持てたとしたら、


数年で潰される部下も、部下を何人も使い潰す上司も、

「守るべき倫理観を守っていない存在」になり、減っていくはずです。


「会社」単位では、「ぶっ倒れるまで働いて体壊して辞める」でも、

その労働者が提供できる価値の最大化になるかもしれませんが、

「社会」単位で見れば、「ぶっ倒れるまで働いて体壊す」のは、

『損失』でしかありえません。


会社には代替の労働力を引っ張ってくる「外」がありますが、

「経済社会」は閉じた世界ですからね。外なんてない。

50年働けるはずの労働力を3年で使い潰したら、単なるとんでもない損失です。


効率だけを見るのであれば、自然治癒力ギリギリのところで働かせ続けるのが、

「社会」全体からすれば労働力の活用としては最も効率的と言えます。


さて、そんな経済社会的視点から見たときにわかる、

個々の労働者の持つべき2つめの倫理。


「50年間ぶっ壊れない」


これですね。


忙しかろうが、上司に無茶振りされようが、

「自分の健康は自分で責任を持って管理する」ということ。


これを適用すると、

「3年死ぬほど頑張ってぶっ倒れて無職になりました」

というのは、非常に非倫理的な行動ということになります。


逆に、

「50年間、辛いときもあったけど、手を抜いたりもしながら何だかんだ勤めあげました」

というのがとても倫理的ということに。


この2つの倫理を、カタい言い方すると

「労働者は、自身の生産可能期間およびその期間における生産価値を、

 自身の管理下に置き、最大化しなければならない」


となります。


つまり、3年だけがっつりやってあとはなにも生産しないのも、

50年間手を抜き続けて、

本来自分が生産できるはずの価値より少ないものしか残さないのも、

両方ダメってことです。


さらに言えば、「自身の生産可能期間」を自力で最大化することが求められます。

要するに自己管理ってやつですね。

自分が末永く健康でいられるように、自分で管理する。


上司に「もっと頑張れ!」って言われたから頑張り、

上司に「疲れてるようだね、休みなさい」って言われたから休むんじゃダメです。


そもそも上司なんてもんは立場上「もっと頑張れ!」としか言いようがないですし。


誰になんと言われようが、

自分がヤバそうだと感じたら、休むなり、わからないように手を抜くなりする。

逆に「頑張れ」と言われなくても、

常に自分の生産する価値が最大化するように動く。もちろん長期的視点で。


というのが、「労働者倫理」のあり方なんじゃないかと。


実際、上司も部下の体調やメンタルまで一人一人管理しきれないですよね。

案外社会に求められているのも、

『「頑張れ」と言ったら壊れるまで回り続ける歯車』でなく、

『「頑張れ」と言ったら自分でペースを調整してメンテしながら半永久的に回り続ける歯車』

のほうなんじゃないのかなと。


ここまで書いてみて、じゃあ資本家とか不労所得なネオニートはどうすんだとか、

仮に半分の力で食い扶持稼ぐには十分な人がいたらどうなんのとか、

いろいろ疑問がわいてきてしまいましたが、とりあえず今日はこんなところで。


結局、一番言いたかったのは、

「お前ら、体壊すまで働いても誰も得しねぇぞ。

 人生もサラリーマン期間も長いんだ。気長にいこうぜ。」


ってことです。

遠回り過ぎるな、うん。

仕事の進め方の実習はもう飽きた。

9月になりました。

今月が終われば、俺も社会人として1年半を過ごしたことになります。

早いもんですね。


最初の1年間で「仕事」についてブログに書いたことは、基本的に

『いま目の前にある仕事をどう捉え、どうこなすか』

ということでした。


当然っちゃ当然です。


で、最近はと言うと、

なんだかんだで「どうこなすか」がある程度見えてきて、

そしたら途端にそれに興味が無くなってしまいました。


うーん、教えてもらった恩を軽んじる、なんてダメな人間なんでしょう。

これからが、

『見えてきた「どうこなすか」を使って会社の役に立て』

ってときじゃないですか。


でも、興味が失せてしまったものはしょうがない。


かわりに最近考えているのは、

いわゆるキャリアパスというやつ。


自分の専門性をどこに置くのか。

ただのゼネラリストじゃ生き残っていけないような気もしています。


一番良いのは、自分の専門を確立し、

その上でその周辺分野の習熟度も上げていくことで、

ゼネラリストに近づいていくというスタイルだと思います。


ゼネラリスト→スペシャリストは無理だけど、

そうやってスペシャリスト→ゼネラリストという道を歩くことはできると、

どっかのエラい人も言ってたような。


社会人として道を進んでいくにあたって、

新入社員のとき言われたのは、


「まず仕事の進め方を覚えろ。

 それができるようになったら、プロジェクト全体の動かし方を覚えろ。

 それもできるようになったら、仕事の改善方法を覚えろ。」



ってことだったんですが、


今の俺は、最初の「仕事の進め方」がなんとなくわかってきた段階で、

プロジェクトの動かし方じゃなくて、

「俺はこれからいかにして生活の糧を得ていくんだ?」

っていう方向に頭がいってしまっている。


うーん、ダメ社員。


もちろんプロジェクトを動かせる能力だとか、

それを成し遂げた実績っていうのは、

社会の中で自分が生きていくために有効だろうなとは思います。


むしろ、そうとしか捉えられなくなってきている。


入社したての頃は「早く役に立てるようにならなきゃ」なんて

キャラに似合わない健気な気持ちもあった気がしますが、

ここにきて、もう自分のことしか考えてないような状態です。


なんでだろう、仕事のやり方が見えてきたことで、

現実も見えてきちゃったのかな。


「会社が守ってくれる」とか、「うちの会社は潰れない」とか、

日本はもうホントにそんなこと言ってられる状況じゃないんだって、

なんとなく感じ取ってしまったのかもしれません。


会社に入って、会社で働く。

というよりも、

会社のどの部分を利用して、どの部分は依存しないでいるのか。

みたいな考え方をしていくべきなのかも。


こうなってしまうと、

企業と労働者の関係があまりにビジネスライクすぎて悲しい気もします。

経済学の教科書みたいですね。


でもそんな甘いことも言ってられない。

自分と家族が一番大切で、労働者にとって、会社はそれを守る手段に過ぎない。

そんな風に考えていかなきゃ自分の身を守れない時代なのかもしれません。


ゆえに、労働者が仕事をする際も、

「この仕事は会社の役に立つのか」でなく、

「この仕事は自分のキャリア向上に役に立つのか」という考え方が強くなる。


これが企業全体として良い結果を招く気はあまりしませんが、

個々の労働者として見れば仕方のないこと。

時代の流れというやつなんでしょう。

この状況のままでは企業の業績が下がっていくのも予想できてしまいます。


ただ、あくまで、これまでのシステムでやっていれば、という話です。


生き残る企業は、「長引く不況」どころか、

追い打ちをかけるように悪いイベントばかり起きてしまった現状を正しく認識し、

労働者の持つ「生き残りたい」というモチベーションを

うまく自社の成長に結び付けるような手を打ってくるでしょう。


外的環境の変化も、労働者の心理の変化も、

すべて所与の条件。

「最近の若いもんは会社への忠誠心が足りん。ワシの若い頃は…」

なんて言っていても、経済のうねりは待ってくれません。


条件の変化をすっと受け入れ、新たな対応策を打ち出していかなければいけない。

それは労働者も企業も同じです。

すべての条件に文句をつけず、「所与の条件」として扱える人こそ、

これからも生き残っていけるんじゃないでしょうか。


まぁ俺は所与の条件が気に入らなかったら、

気に入る条件に変わるように画策しちゃう気がしますが。


何を言いたいか良くわからない感じですが、

とりあえず、

「生き残るにはどうしたらいいんだ。やっぱ専門性か?」

という、ありがちな社会人2年目病に陥った記録ということで。


プロフィール

しんじ

Author:しんじ
「新氷河期世代」
と呼ばれながら就職活動をした
2010年卒の社会人。

新氷河期世代1期生が社会に出て
感じたこと、考えていることなどをつらつらと。

でも就活状況の悪化が激しすぎて
下の世代のほうが優秀かも。

コメント歓迎。
メールで何か言いたい場合は
shintubu001○gmail.com
へお気軽に。
(○を@に変更)

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